プロの噺家の定義とは

ちょっとTwitterで盛り上がった、とある落語家さんに対する某市の対応がひどいという話がありました。
主題は、断られたからって『もうお前頼まないように全員に言っといたからな』って脅すのはひどくね?というものだったのですが、その中で、「ところでこの人、プロの落語家なん?」という疑問が流れて、別ルートの論争になったわけです。

そもそも落語家って何だろう

ところで、落語家だろうが天狗連だろうが他の職業だろうが、面白くないことがあったからといって、「お前もう出入り禁止だからね」という文書を送りつけたり「みんなにこのこと伝えたからね」と関係ないところにまで触れ回るのは、やはりこれは某市が良ろしくないことであると思います。

「もうここで活動できなくしてやんよ」というのは脅しであって、「みんなにこのこと伝えたからね」と伝え歩くというのは、生保営業やってた時は「誹謗中傷」というわけでコンプライアンスに引っかかったんですけど、このあたりどうなのでしょうか。ねえ(誰に)。
こういうことは、文書とか残しておいたほうが良いようですよ、みなさん。

で、別ルートの「で、この方はプロの噺家・落語家なの?」という問題ですが、結論から言うと「落語家」ではないと考えます。
某市は「プロじゃないんだから、いいじゃん」と考えたのなら、無理はないかもしれません。
やったことはヒステリックではありますが。
落語をやってる人という括りなら、天狗連も大学の落研も、みんな落語家になってしまいます。
落語やってる人がみんな落語家でないことは、明らかです。

では、落語家の定義は、考えるに

「師匠に弟子入りして修行して、噺を師匠から上げて良いと言われて高座にかけられる人」

です。
江戸落語でも上方落語でも同じです。

落語家になって、落語を高座にかけられるようになるには、師匠からの稽古が必要で、師匠から「上げて良し」と言われてからです。
つまり、落語家として落語ができているのは、そのひとつひとつの噺を師匠に稽古をしてもらって合格しているからなのです。
稽古と上げて良しの声がなければ、その噺を演じることは絶対にできません。
これを破ると、大いにしくじることになります。下手すると破門になるくらいのしくじりです。
稽古は絶対十分条件なのです。

それが出来る環境にある落語をかけられる芸人。それが「落語家」であると考えます。

プロの落語家とは何か

では、「プロ」の落語家にはなにが必要なのか。
一部で、落語協会とか芸協とか一門に所属していないと、プロの噺家ではないという説がありますが、それは間違いです。
寄席に出ていないとプロではないという話もありますが、そうだとすると、円楽一門会も立川流も、プロじゃなくなってしまいます。
余談ですが、円楽一門会所属のうちの噺家は「寄席に出られないんじゃなくて出ないんだ」って言ってます。

どこにも所属していないで、寄席にも出ない、フリーの落語家は何人かいらっしゃいます。
何を以ってフリーだけどプロかというと、「真打まで修行をしたかどうか」が通説のようです。
これはその通りで、真打になるまで師匠の下で修行をして、それから独立したのならフリーでもプロですし、真打を名乗っても良いかと思います。

ここでもう一説、「落語で食ってけるやつがプロだ」という考え方が出てきます。
しかし、これを言ったら、真打のうち女房の稼ぎなしで養っていける噺家なぞ果たしてどのくらいいるのかしら、と遥か遠くを見てしまいます。
また、落語の他に本書いたり、司会やったり、研修とかセミナー講師やったり、ランナーだったり(うちのだ)とかしている噺家は、プロではないということになってしまいます。

確かに、「それで食えるか金が取れるか」はプロかプロじゃないかという指針になるでしょう。
きっと、世の中のコンサルタントさんとかは「金が取れないならプロじゃない」というんだろうなと思いますし、正しい指摘です。
しかし、一般業種では「食えるか食えないか」は必要な研修課題になるわけですが、伝統芸能というと、これまた別の話ではないかと考える次第です。

芸を継承する者

では、「プロの落語家」というのは、一体どういう定義なのか。
それは、「芸を継承する者であるかないか」とではないかと考えます。

芸を継承する者であるからこそ、師匠の下で修行をして、稽古をして、ひとつひとつの噺をあげることができる。
これを行うということは、師匠の話芸を継承するだけでなく、落語がはじまった江戸・明治まで遡って継承していることと同義なのです。

古典落語は、みんな同じストーリーではあるのですが、演る噺家によってそれぞれ違います。
その違いは芸の違いであり、遡れば「三遊」「柳家」「古今亭」などの流れに行き着きます。

この噺家の「紺屋高尾」は三遊亭円生師の流れ、あの噺家の「甚五郎」は三木助師の流れ、など一門によって演じ方が違いますし、登場人物も違う場合があります。
深いところだと、解釈もテーマも違う場合があります。

その流れを継承できる者であるかないか。
落語というしきたりや文化と共に、話芸を継承できるか。
継承できる者が、プロの落語家ではないのか、と思うのです。

もちろん、「最近の若い落語家はそうじゃない。変わってきている」という意見もありますし、ご指摘いただいたこともあります。落語関係者ではない方からでしたが。
現実社会から見て、継承とか伝統とか噺家だけの世界とか、そんなものは古いし、もっとビジネスを仕掛けなくてはならないという考え方は、最もです。
そうじゃないと食っていけない時代です。芸人も世の中の模範にならなくちゃだし、時代遅れなことは認めなくてはならない昨今です(錦糸町)。

しかし敢えて、その「伝統」「継承」を守ろうとする。
それができるのが、プロの落語家なのだと思うのです。

あ、プロの落語家にとって大事なギャラの話になりますが、以前「安いギャラでも落語ができれば良いと思うのか、それとも落語やらなくても(スタンディングとか司会とか)高いギャラが良いのか」って聞かれたことがあるんですけど、そら高いギャラなら高いに越したことないですけど、そうじゃない。そうじゃないんですよ。

これを聞いた時点で「ベクトルが違うんだなあ」と思った次第です。
伝統芸能でも、プロなら儲け一番に金勘定せなならんって諭される。
そういう時代なのかもしれないです。