多数派でいる安心の隣にある闇とは

昨日、生涯学習の一環ということで、「ハンディを持つ方々と一緒に落語の世界を知るというテーマで高座とワークショップを行う」という依頼の打ち合わせを行った。
「変わっているひとたち」って、自分とどこが違うのか?を知るワークショップということだった。

「っていうか、変わった人たちは落語の中では普通のことなんですよ。特別な人たちじゃない」

と、うちの噺家はいう。

落語の中にはたくさんの「障碍」を持つ人たちが出てくる。
しかも、使用自粛用語(いわゆる放送禁止用語)を自粛せずに使って話す。
実は、うちが出ている寄席は治外法権的な寄席で、こういった言葉は普通に出てくるが(キチガイとか普通)、末廣や鈴本、浅草などの定席では聴いたことがない。
こういった時代なので、また聴き手にもいろんな感情があるだろうし、自粛しているのだろうと感じる。
落語ですら、今の時代、語りにくいものになってしまっている。

もともと落語というのは、障碍どころか犯罪者も主人公だし、貧乏人が主役であるし、一般人がヒーローだ。
善も悪も、幸も不幸も、人間が持っている暗くて黒くて愚かしいところをひっくるめて「それが人間でしょ」と、落語は笑う。
金に目がくらむ泥棒も、女に騙されてしまう男も、ちょっと「足りない」与太郎も、噺という笑いに昇華する。

今よりもっと昔、きっと今よりも特別な人はたくさん居たであろうと思われる。
ほとんどが貧乏人だし、栄養状態や医学の未発達ということもあり、身体的にハンディがある人というのは多かったのだろう。
そんな人たちは、長屋の住民が面倒をみていた。
少し足りない与太郎は、しっかりものの女房がついて、町内の若い衆が生き方も遊び方も教えた。

そうやって暮らしていくときに、ハンディならではの事故や与太郎ならではの可笑しいことがある。
それを、莫迦にするのではなく、普通に「可笑しいよね」と笑いに変える。
それがイジメではなく、フラットな感覚だったのではないか。

小噺がある。

やってきた按摩は、盲(めくら)だ。
お店の旦那に施術を終えてみると、すっかり夜が更けてしまっていた。
「すっかり外が暗くなってしまって、どうぞお気をつけてお帰りなさい」
「へえ。あたしゃ盲ですからな。暗くても明るくても見えやしませんが。
ああ、番頭さん。悪いが提灯を貸して下さらぬか」
番頭は不思議に思い
「按摩さん、お前さん目が見えないんだから、提灯持ってどうするんだい」
そういうと按摩は笑って
「足元を明るくしておかないと、向こうから『見える』というめくらがぶつかってくる」

視点が変わると、見える人は「違うひと」となってしまう。
見えないことはハンディではなく、見えることの方がある意味ハンディになっているかもしれない。
こうなると、何が特別で変わっていて不幸なのかがわからない。
わかることは、みんな「人間」だということだけだ。

昨今、勝ち組とか負け組とか、差別とかイジメとか、兎角この世は住みにくい。
そんな現代に生きているわたしたちは、高座の向こうで与太郎に「莫迦だなあ」と笑われているのかもしれない。

噺家は、座布団の前に扇子を置く。
これは「ここから先はこっちの世界。失礼があったらごめんなさいよ」という結界を貼るのだ。
たしかに、あっちの世界は近くて遠くて、愛おしい人間たちが住んでいる。