ふたつの禁演落語 戦渦の落語とはなし塚

写真出展:Wikipedia

昭和16年10月30日。はなし塚の除幕式が執り行われた。はなし塚に葬られたのは53の落語の演目。時局にそぐわないとして、噺家達が自ら演じることを自粛したのだ。
折しも日本は第二次世界大戦。全ては御国のためという名の下に、思想までもが軍事統制されていた。

笑いを求めることすら首枷となった時代が、確かに存在していたのである。

噺家が自ら自粛した禁演落語

禁演落語は、いわゆる艶笑落語と思われている節があるが、それだけではない。
禁演落語とは、戦時中に「戦意高揚を妨げる」「お笑いだけの報国だけで良いものか」として、噺家達が演じることを禁じた落語のことをいう。

驚くべきことに、この禁演を決めたのは噺家達自らだということだ。当局の取り締まりが怖いということもあっただろうが、体制批判や「バカバカしいおはなし」でご飯を食べている芸人が「時局に合わない」と判断したのである。

もちろん、反対する者もあった。作家であり芸能評論家の正岡容氏は「何ともかとも頭の悪い限りである」と批判している。もっとも、氏の言うことによると、「もともと演じるのをやめたほうが良い賭博を扱う演目や淫猥な噺が既にあるにも関わらず、それを自粛することもなく、今更よくわからない理由で上演禁止にするとは何事か」と、若干怒りの矛先がずれてはいる。

自粛した噺は以下である。

五人回し 品川心中 三枚起請 突き落とし ひねりや 辰巳の辻占
子別れ 居残り佐平次 木乃伊取り 磯の鮑 文違い
茶汲み よかちょろ 廓大学 明烏 搗屋無間 坊主の遊び
白銅 あわもち 二階ぞめき 高尾 錦の袈裟
お見立て 付き馬(もしくは早桶屋) 山崎屋
三人片輪 とんちき 三助の遊び 万歳の遊び
六尺棒 首ったけ 目ぐすり 親子茶屋 宮戸川
悋気の独楽 権助提灯 一つ穴 星野屋 三人息子
紙入れ つづら間男 庖丁 不動坊 つるつる
引越しの夢 にせ金 氏子中 白木屋
せんきの虫 蛙茶番 駒長 おはらい 後生うなぎ

これら53演目は、男女の噺、子供や家族、残酷な描写、荒唐無稽であることが選出の理由であるとされている。

53演目は、当時の講談落語協会顧問の野村無名庵を中心に行われた。何しろこのころは、古典・新作合わせて500余の演目があったというから、選出にも随分と手こずったらしい。

噺塚は浅草寿町(現台東区寿)にある長瀧山本法寺境内に建立されることが決まった。噺塚の裏には発起人である寄席の席亭の名前や文治、小さん、志ん生、金馬などの名前が刻まれている。

桂文楽の肩書きは「六代目」となっている。文楽は六代目と名乗ることを嫌がり、自らを八代目としていた。しかし、はなし塚発起人としての文楽は六代目と記している。禁演落語が、余程不本意であったに違いない。

戦争中の落語と迎える終戦

戦時下の落語や芸能がどのくらい軍事統制されていたかというと、そこは噺家達の思惑と違っていたらしい。当局では、53演目の中に多い艶笑や家族ものの内容より、天皇や軍を愚弄したり批判したりする内容に神経を研ぎ澄ましていた。

実際のところ、禁演落語を届け出したところで、「収めておきましょう」であったという。落語を聴かないお上には、その演目を出されたところで内容はわからなかった。

しかし、寄席には取締りの警官がやってきて、怪しいと判断したらその場で噺家を連行したという。連行された噺家は「さっきの噺をもう一回やってみろ」と言われ、一席演ってお巡り達がひとしきり大笑いしたあと、反省文を書かされたという逸話がいくつも残っている。反省文の内容が気になるところだ。

演る噺は少なくなっていたが、500演目の中の53であったので、噺家はとくに苦労することなく無難な噺を選んでかけていた。しかし、艶笑話や大根多が得意で持ちネタが少ない件の八代目桂文楽は困ったらしい。

新作も大いに作られた。中でも初代柳家金語楼の「落語家の兵隊」は代表作だ。
「職業は、オチガタリか?」
「オチガタリとは参ったな、そりゃ、落語ってんです」
と、出兵した際の経験を落語にしている。「ヤマシターーケータローーー!」のセリフとともに、この新作落語は広まっていった。

初代柳家金語楼は、この間に数百の噺を作ったと言われている。新作落語の地位をあげたきっかけが、笑いを失くした戦争であるとは皮肉なことでもある。

戦争はいよいよ深刻な局面へと入っていき、艶笑話をどうやって無難に演じるかなどと考える暇はなくなってきた。噺家も徴兵されるようになったのだ。

小さん、桃太郎は兵役経験を持つ。円生と志ん生は、慰問に満州へと旅立った。志ん生は「向こうに行ったら好きなだけ酒が飲める」で、円生は「日本にいても寄席はなくなるしこのままでは落語ができなくなってしまう」という、両者の動機の差が面白い。2ヶ月程度で帰れるはずだった二人は、結局2年過ぎてから日本に帰ることとなる。

終戦を迎えたとき、東京に残ったのは人形町の末廣亭のみであった。しかし、人々は笑いを求め、再び寄席に集まった。

禁演落語も復活の兆しを見せ、いよいよ昭和21年9月30日復活祭となった。しかし、その席に当初は居た芸人の何人かは戦火に巻き込まれ、既に姿はなかった。

はなし塚の中心人物であった野村無名庵も居なかった。彼は、空襲で焼夷弾の直撃を受けて焼死したとある。

禁煙落語を早速興行として始めたのは、日劇小劇場だった。「明烏」「粟餅」「蛙茶番」などが演じられ、女性客も多く入ったらしい。色っぽい場面では、男性も女性もよく笑った。戦争は終わったのだった。

はなし塚は、東京大空襲で本堂が焼け落ちたにもかかわらず、今も本法寺境内に無傷で残っている。

自粛禁演落語廿七種

戦争が終わり、人々に笑いと自由が戻ったところへやってきたのがマッカーサーとGHQだ。

彼らは、「民主主義にふさわしくない」というものは検閲の対象とし、歌舞伎の「忠臣蔵」「勧進帳」のほか、315種を上演禁止にした。

落語にも、その波はやってきた。婦人を虐待するもの、仇討ちもの、宗教の強要、征服ものが検閲の対象とされ、以下の話が禁演を余儀なくされた。

桃太郎 将棋の殿様 景清 巌流島 高尾 五章うなぎ お七 肝つぶし 寝床 宗論 四段目 花見の仇討ち 袈裟御膳 社員の仇討ち 山岡角兵衛 宿屋の仇討ち ちきり伊勢谷 毛氈芝居 白木屋 くしゃみ講釈 他

これらの27演目は、22年5月30日に再びはなし塚に葬られることとなってしまったのだ。この日は、戦火に散った野村無名庵の三回忌法要の日でもあった。

しかし、この時の禁演落語は、どちらかというと「うるさいことを言われる前にやめてしまおう」という意味合いが強かったという。実際、歌舞伎は噺を塚に埋めた年に解禁となっている。

噺のチョイスも、いい加減ではあった。「桃太郎」は仇討ちにさっぱり関係ないが、元のストーリーに鬼退治の描写があるからまずいだろうという、ただそれだけの理由だ。

他にも、「宿屋の仇討ち」「写真の仇討ち」などはタイトルに仇討ちが付いているからまずいだろう、「将棋の殿様」「寝床」は民主主義に反するかもしれないからまずいだろうという。

婦女子を虐待する噺を禁じると言っておきながら、廓話も間男ものも禁じていない。
いまいち基準がわからないことになっているのだ。

この頃の興行は、全てGHQにあらすじを翻訳して提出する必要があった。禁演落語を決めたのは、いちいち演目のストーリーを説明するのが面倒だったのかもしれない。
第一、笑いを一からオチまで説明することなど、それこそ野暮の極みである。

1949年の4月に、禁演落語復活法要が行われたらしいが、新聞には報じられなかった。

人々の関心は、復活の未来へと向かっていた。二度と、過ちは繰り返さないだろうという明るい思いが人々の中にあった。好きなように考え、笑い、集い、人々は生きていることを実感していたのだ。


現在では、禁じられている落語はない。
しかし、最近は放送自粛の演目が増えていると聞く。
江戸時代から現代にかけて300年。倫理も文化も大きく変わった。差別の考え方も変わったことで、実質上禁演となっている演目が出てきている。

「紺屋高尾」は、たったひとつのセリフのために、寄席でかけられなくなっているという。テレビでも無理だろう。「宗論」もそのひとつだ。自粛により、日本の歴史の一部であった闇がないことにされ、演じられなくなってしまうことは非常に惜しい。

とはいえ、現在の日本はまだ、禁煙落語を演って取り締まりを受けることも、逮捕されることもない時代が続いている。禁煙落語を演じることは、平和と自由の証なのだ。

世界が再び、戦争せざるを得ない状態になることを積極的に推奨するべきではないし、支配を目的とした検閲が復活してはならない。

人間の優しさや、欲と愚かしさを、可笑しいと笑い飛ばせる日々が、いつまでも続くことを願っている。

参考文献:
小島貞二著「禁演落語」「落語三百年昭和の巻」
柳家金語楼:落語家の兵隊(口述速記)

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