日本の民話と落語の関係





47都道府県に伝わる民話に関して企みを進めている。もともと書こうと思っていたものであるが、忙しさにかまけて手につけられずにいた。資料がなかったこともある。
ある師匠に「探してるんですよねー」と話したら、嬉々として「Hな昔話」を渡されたことがある。それでもいいんだけど、それじゃない。

なんとなく資料を探していたのだが、ある日”ぎょうせい”発刊の「日本の民話」を見つけた。全12巻に47都道府県の民話が網羅されている。その膨大の量は最早研究書に近い。早速取り寄せて読んでみた。



落語には民話に似た噺が多くあるが、ここにも「昔話が先か落語が先か」と思うような噺が多々見つかった。
例えば、徳島県の民話の「和尚の隠れ遊び」は、その昔林家木久扇師匠(当時は木久蔵)が持ちネタでやっていたものだ。「そこは乳が森…」という所作が面白可笑しかった。いわゆる艶笑小噺だ。

愛媛県の「たのう久兵衛」は、ご存知「田能久(たのきゅう) 」。読んでみると確かに落語とすっかり同じである。同じ噺が京都にもあるのが面白い。
その京都には「鼻が欲しい」という民話がある。これも小噺になっているが、民話ではお殿様の鼻は人よりもやたらに低いということになっている。やはり、梅毒では子供達に語れないのかもしれない。
徳島県の「かかみところ」は、落語「松山鏡」の枕に使われている小噺だ。岐阜県にも同じ噺があり、徳島と岐阜の噺を合わせたものが枕の小噺に仕上がっている。

本州の民話が落語とよく似ていることに対して、北海道と沖縄は噺の持つ雰囲気から違う。
どこか異国な空気感があり、セリフの回し方も違う。
北海道は、やはりアイヌ民族の噺が多く、ユーカラだ。節に合わせて唄うように語る。神様からの言葉が多く、ユリ根を採りすぎてはいけない、台所は綺麗にしなければならない、争いは慎まなければならないなど教訓めいた噺だ。そして、登場する神様たちは欲に忠実で、女の神様が嫉妬の末に人間の娘と戦ったり、男の神様が綺麗な人間の娘を拐かして嫁にしてしまう。
過酷な自然界での暮らしでは、不可解な死も多かったのだろう。ロシアのアイヌとの交流も描かれ、歴史的に大変興味深い。

沖縄はというと、こちらも神様の噺が多い。雰囲気も北海道の民話とよく似ている。ただ、こちらに多いのは「継母」や「子殺し」だ。当時の貧しさ故から生まれた噺なのかもしれない。
救いは、継母が必ず悲惨な最期を遂げるという、グリム童話を思わせるストーリー展開だ。大抵子供が神様や動物を味方につけ、継母や自分を殺そうとする大人に反撃する。民話で語られているということは、それだけ多かったのだろう。

その昔、女子供に人権はなかった。明治以降でも、都市部から離れた地方では時が止まったまま、現代でも同じような思考を持つ人は少ながらずいる。それを、時代遅れと責めるには当人にとってみれば酷であり、閉鎖的な土地で生き、語り伝えられ刷り込まれてきた思想なのだろう。

これが関東あたりの民話となると、一気に様子が変わる。
お殿様や侍の噺も多いのだが、なんといっても女房が強い。
恩返しのために人間になった動物が嫁になるものも多いのだが、その嫁がまるでしおらしくない。弱い旦那を叱咤激励し、機転を利かせて悪者を追っ払う。あるいは、「屁」という武力行使にでることもある。屁はともかく、旦那をやり込める女房の図は、落語に出てくる女房と同じだ。

読んでいると、落語の原点はこれら「語り」ではないかと思えてくる。
子供達は、ご飯を一食抜いてでも昔話を聴きに集まった。テレビやネット、本だってまともにない時代、「語り」は想像力をかきたてるエンターテイメントであったのだ。

これら、民話をさてどうシナリオに起こそうか。
当時の思想と民族性と対話する、長い旅の始まりだ。