殿中!松の廊下 江戸城に残る忠臣蔵の真実

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年末の風物詩といえば忠臣蔵。忠臣蔵とは、赤穂藩主であった浅野内匠頭が江戸城の松の廊下にて、高家旗本・吉良上野介義央を斬りつけたことに伴う一連の事件である。

切腹・お家断絶の命を受けた浅野内匠頭に対し、吉良上野介はお咎めなしとの沙汰に反発した四十七士の赤穂義士たちは、12月14日に両国本所の吉良上野介屋敷に討ち入り、吉良上野介の首を落とし本懐を遂げた。

主君の仇を討つ赤穂義士たちの忠義と葛藤、人間ドラマは江戸っ子の心をつかみ、仮名手本忠臣蔵をはじめとした多くの戯曲が生まれ、現代にいたっている。

この、赤穂事件のきっかけとなった浅野内匠頭による「ご乱心」の舞台が、江戸城本丸 松之大廊下だ。現代は松之大廊下跡として、皇居東御苑に残されている。

松の廊下は、本丸大広間と白書院(将軍との対面所)を結ぶL字形の廊下となっていた。本丸で二番目に長い廊下といわれ、西へ約19メートル、北へ約31メートル、幅は約5メートルであったと伝えられている。障壁画に「松」が描かれていたことから「松の大廊下」と呼ばれていたという。歌舞伎でも映画でも、この松の廊下のシーンは有名で、赤穂義士討ち入りのシーンと並ぶ名シーンだ。

「この前の恨み、覚えたるか!」と小刀を抜き斬りかかる浅野。吉良の額が斬れ飛び散る鮮血、梶川与惣兵衛がなおも刀を振り回そうとする浅野を後ろから羽交い絞めにし「殿中でござる!刀をお納めくだされ」とするも、「止めてくれるな梶川殿、武士の情けじゃ討たせてくりゃれ」。

仮名手本忠臣蔵では、この冒頭を「大序」とし、特別に取り扱う。余談だが、浅野内匠頭切腹のシーンである「四段目 扇ヶ谷判官切腹の場」は、「通さん場(とおさんば)」と呼ばれる。切腹という厳粛な場面のため、開演後しばらくの間客席への出入りが出来ない決まりだ。

なぜ浅野内匠頭は吉良上野介に斬りかかったのか。この疑問は、史実を知る忠臣蔵ファンでも解くことのできない謎だ。忠臣蔵のドラマでは、吉良上野介は真面目な浅野内匠頭を「田舎大名」と罵る、非常に陰険な悪役である。浅野内匠頭は、度重なる吉良上野介のいじめに耐え兼ね、斬りつけたというのが通説だ。

しかし、実際の吉良上野介は名君だったといわれている。吉良の領地である三河国幡豆郡では、治水事業や富好新田をはじめとする新田開拓を進め、領地を訪れた時には赤馬に乗って農地をまわり、人々に声をかけたという。現在でも吉良町(現西尾市)では吉良様と呼ばれ慕われており、吉良上野介が乗っていたとされる赤馬が郷土玩具として伝承されている。

松の廊下の事件は、浅野内匠頭の被害妄想が引き起こしたという説もある。
しかし、これが事実であったとしても広まりはしなかっただろう。浅野が勝手にキレたことを忠実に再現しては、ドラマにならないからだ。庶民が待ち望んでいたのは、権威ある悪を身分の低いヒーローが撃退するという下克上である。

戦国の世が去り、平和が日常となっていた元禄の時代に、権威に負けた主君の仇を討ち、忠義に散った赤穂義士たちとそのドラマは、時代に刺激を与えてくれるアウトローなエンターテイメントだったのかもしれない。

赤穂義士たちが本所松坂町の吉良邸で本懐を遂げた12月14日、この日は奇しくも浅野内匠頭の月命日に当たる。
浅野内匠頭が松の廊下で事件を起こした3月14日、後に忠孝のはざまで自害した家臣の萱野三平が、主君の一大事を伝えに早駕籠で赤穂へ向かっている。

浅野内匠頭は、その日のうちに陸奥一関藩主である田村建顕の屋敷にて切腹。
田村建顕の屋敷跡は、東京都港区新橋4丁目に「浅野内匠頭終焉之地」として残されている。


※この記事は、一般社団法人日本地域振興新聞社発行「千代田区新聞」2018年12月号1面に櫻庭が執筆したものです。