明烏 一夜明けた大人時次郎と甘納豆の謎

2月の落語といえば「明烏」。「初午でしたのでお稲荷さんへお参りに行きましたら…」という台詞があることから、早春の噺として、多くの噺家が高座にかける。

明烏あらすじ

日本橋は日向屋の息子、時次郎は父親が心配するほど堅物の若旦那。久しぶりに外に出かけたと思ったら、初午祭りで賑わう近所のお稲荷さんで子供たちと遊んで遅くなったと報告するののだから、ますます呆れてしまう。

しかし時次郎から「帰り道で源兵衛さんと多助さんに会いまして、観音様の裏手に大層ご利益があるお稲荷様があると誘われたのですが、言ってもよろしいでしょうか」と聞かれた父親、「そりゃ良い。行っておいで行っておいで。お籠りもしておいで」と送り出す。実は、堅物の息子を心配した父親が、町内でも札付きの遊び人である源兵衛と多助に、遊びに誘ってやって欲しいと頼んでいたと言うわけだ。

「あんな堅物、来やあしねえよ」という多助に、「それが来るってんだよ。息子を遊びに連れてってくれなんて、粋な旦那じゃねえか」と答える源兵衛の元に、「観音様の裏手にあるご利益高いお稲荷様」へお籠りにと、時次郎がやって来た。いよいよ、堅物若旦那を大人にさせるべく、観音様の裏手、つまりは吉原の大門を潜るのだが…。

吉原で大人になった時次郎 吉原の役割の今昔

写真:Wikipediaより

「明烏」の舞台である「観音様の裏手」とは、吉原のことである。昔は「観音様の裏」や「中へ」、「遊びに」と言えば、それは「吉原に行く」「女郎買いに行く」と意味が通じたという。それほど、一昔前の男たちにとって、吉原での遊びは生活に根ざしたものであり、大人への登竜門的なものであった。時次郎は、20歳になっても知らないというのだから、相当なウブだったということだろう。
何も知らない時次郎が、源兵衛多助に質問するあれこれは、そのまま「吉原入門」になっているが(お稲荷様にすり変えられているが)、現在では通じないことも多く、噺家としては枕でひととおり説明しなくてはならないこともある。

この落語には、元ネタがある。時次郎と花魁・浦里の悲恋を描いた新内「明烏夢淡雪」だ。
「明烏夢淡雪」では、時次郎は籠から浦里を連れて死の旅へと飛び降りる男になっている。落語「明烏」の時次郎が、後の「明烏夢淡雪」の時次郎というのならば、落語の解釈はふた通り出て来る。

解釈の違いは、最後の時次郎の台詞に現れる。「あなた方、帰れるものなら帰ってご覧なさい。大門で縛られるから」のあのサゲだ。

この台詞が、時次郎が単に女の身体を知った意味で言ったのなら、時次郎は初体験を終えた若旦那のままだ。最後の台詞は源兵衛と多助の嘘を、おうむ返ししただけとなる。
時次郎は、町内の札付きが教えた、ちょっと悪い遊びを知ったかぶりしたに過ぎないのだ。

しかし、時次郎が後の「明烏夢淡雪」の時次郎になるというのなら、あの台詞は「一夜にして開眼」した上での言葉になる。

時次郎に遊びを教えてくれと頼んだのは、曲がりなりにも日本橋の大店の旦那である。町内の札付きのワルに遊びに誘ってやってくれというくらいの「粋な」旦那の息子である時次郎には、早いところ書物の中の綺麗で理想的な社会だけではなく、裏の社会や人の機微を知ることが必要だ。

また、吉原初回に関わらず浦里が相手に付くということに、時次郎と源兵衛多助の違いがある。そんじょそこらの町人に息子には、いきなり浦里クラスの花魁が付くことはない。日本橋の大店「日向屋の若旦那」だからこそ、全盛の花魁である浦里がついたのである。

そして、浦里だってある程度の男を相手にしている花魁だ。ただ時次郎に女体というものを教えていただけではあるまい。
ここに来て遊ぶということはどういうことか、自分を相手にする男というのはどういう地位であるべきか、一夜にして開眼させるくらいのことをしただろう。
時次郎を、この先自分の元へ通うほどの大人の男に仕立て上げたのである。

こうなると、最後に源兵衛と多助に言い放つあの言葉は、一夜にして立場が逆転した現実を表している。時次郎は、晴れて町内の札付きに「坊ちゃん」とからかわれる若旦那ではなく、町内の札付きを使う立場の旦那となったわけだ。

とはいえ、最近では吉原が持っていた役割を知っている人は少ない。
「明烏」は、吉原で筆おろしした若旦那が性に開眼したという方が、笑い話として面白くわかりやすいとされているらしく、若旦那のままサゲる演出も多い。

それはそれで落語としても面白みもあり、楽しく笑える一席であるのだが、なんとなく淋しいものではある。

朝の甘みはオツだね 甘納豆の演出はいつから

「明烏」を十八番にしていた師匠といえば、八代目桂文楽だ。浦里といちゃつく時次郎に腹を立てた勝五郎と多助が甘納豆を食べる所作は見事で、寄席の甘納豆が売り切れたという話は有名である。

この件の甘納豆を食べるシーンがお馴染みになっているのだが、さて、いつから甘納豆シーンが始まったのかというと、これがまたはっきりとしない。

八代目文楽の前に、明烏などの廓話を得意としていた師匠に、初代柳家小せん((1883年4月3日 – 1919年5月26日))がいる。遊びが過ぎて盲目の噺家となった初代小せんだが、晩年は噺家の育成で生計を立てており、志ん生や圓生、文楽らは「三好町通い」として廓話を教わりに行っている。

甘納豆は、大正8年の初代小せんの速記に、既に登場している。

勝五郎「私はモウこうなると色気よりも食い気で、今ここの茶箪笥を見ると栄太楼の甘納豆があるから、これを食べきっちまうとね、今日は馬の日、神棚に油揚げがあがっているからあいつを下ろしてね、新造に鍋を借りて油揚卵か何かして食べたい」

速記だけ見ると、甘納豆を食べているかどうかはわからないが、甘納豆をつまんで口に放り込みながらあちこち物色している様子が伺えないこともない。甘納豆自体は、大正8年の高座からお目見えしていることがわかる。

とはいえ、八代目文楽の「明烏」は、三代目三遊亭圓馬からの型が基本だろう。文楽は、圓馬を尊敬していたことは有名で、「なめろと言われたら圓馬のゲロまでなめた」ほどだというから相当だ。

三代目圓馬の芸のすごさは、その描写力にあったという。羊羹を食べる所作では銘柄まで分け、豆を食べる所作では枝豆やソラマメ、甘納豆と種類を分けたという。
文楽は「描写の芸」と言われるが、甘納豆のリアルな食べ方は、三代目圓馬から継承した型を、文楽が彫琢したと言えるだろう。となれば、甘納豆を食べるシーンをモテない男二人の象徴として入れたのは、八代目文楽からなのかもしれない。

「描写の文楽」と対照的なのが、「心象の芸」である古今亭志ん生だ。志ん生も「明烏」を持っていたのであろうが、文楽が十八番としている間は高座にかけることは滅多になかっただろう。

もし志ん生が「明烏」を演ったのなら、甘納豆を食べる所作などはどうでもよく、最後の台詞に向かう伏線をどこでつけていくのかが聴きどころになったであろう。
「おんなじ噺ばっかりやってるとサ、飽きちゃってネ」という志ん生の声を聴きながら、有りもしない音を妄想している。