落語口述速記の誕生

戦後から昭和30年代に出版された落語速記本には、編著として今村信雄氏が関わっているものが多い。今村信雄氏は速記者であり落語研究家だ。昭和初期から戦後、多くの噺家たちと親しく交流し、東京落語の理念を追求する明治38年発足の「落語研究会」の主事も務めている。

信雄氏の父親が、明治大正期の落語口述速記の実力者である今村次郎氏である。落語研究会の発起人でもあり、明治大正期に出版された落語速記本には、酒井昇造氏の名前と共に今村次郎氏の名前が「速記者」として記されている。

言文一致運動と牡丹灯籠

落語講談速記の第一号は、三遊亭圓朝の「牡丹灯籠」だ。明治17年の人形町の末廣亭での高座だったという。ここでは、速記の歴史は専門書にお任せするとして、落語講談速記に焦点をあてて振り返ってみよう。

明治15年、田鎖綱紀氏が英国のビットマン式速記文字を日本語に当て、改良し発表したのが日本傍聴記録法である。同年、この速記法の講習会が始まった。多くの脱落者が出る中、若林玵蔵、酒井昇造、林茂淳の三人が最期まであきらめずに鍛錬、工夫し、どうやら人の話を書き留められるようになった。

日本で一番最初に速記を利用したのは、報知新聞による談判の速記依頼であるという。明治16、7年のことだ。同じころ、講釈や落語を速記して出版しようという声が出始めた。田鎖綱紀氏の弟子であり、速記の育ての母と言われている前述の若林玵蔵が著した「若翁自伝」によると、

明治17年ごろ京橋の稗史出版会社から「三遊亭圓朝の人情噺をそのまま速記したら面白いものができるだろう。速記してもらいたい」と依頼された。そこで、酒井昇造氏に相談したところ、練習かたがた援助すると承諾した。そこで圓朝に出版社から承諾を得てもらい、15日間の噺をまとめることになり、15日間お互い欠席しないと約した。

と記されている。

速記は末廣亭の楽屋で行った。演目は「牡丹灯籠」。これまで論説や談判を速記してきたが、人情噺の速記は経験がないうえに雄弁に言い立てる部分では随分と困難であったらしい。
どうにかこうにか若林氏と酒井氏のふたりで速記し、土曜日ごとに雑誌に掲載したところ、大いに評判となり非常な売れ行きとなった。

岡本綺堂は「寄席と芝居と」の中で、

(速記本が)最初に現われたのは半紙十枚ぐらいを一冊の仮綴かりとじにした活版本で、完結までには十冊以上を続刊した

と記している。

手ごたえを得た出版社は、翌年には「塩原多助一代記」を出版。速記を世に知らしめる格好の機会となった。圓朝の高座は既に名人として名高いものであったが、速記本の発行は名声を広める後押しになったであろうことは想像に難くない。

寄席に行かない人も、圓朝の人情噺を楽しむことができ、寄席に行って圓朝を聴く人にとっては予習復習にもなる。「読む落語」というエンタメがここに爆誕した。

「牡丹灯籠」が出版される際には、かの坪内逍遥が「春のやおぼろ」の筆名で、

此のごろ詼談師《かいだんし》三遊亭の叟《おじ》が口演《くえん》せる牡丹灯籠となん呼做《よびな》したる仮作譚《つくりものがたり》を速記という法を用いてそのまゝに謄写《うつ》しとりて草紙となしたるを見侍るに通篇《つうへん》俚言俗語の語《ことば》のみを用いてさまで華あるものとも覚えぬものから句ごとに文ごとにうたゝ活動する趣ありて宛然《さながら》まのあたり

と書いている。多分褒めている。

さて、維新前後頃から洋学者・前島密らによって提唱されていた言文一致運動の機運は、このころになると随分と高まってきていた。文明開化により読み書きを必要とする階層が一般の町人たちにも広がり、文語体では意思疎通に不便が生じ、自由な思想表現が困難となってきたためだ。

圓朝の落語速記にインスパイアされ口語体による小説「浮草」を発表したのが二葉亭四迷である。小説を書くにあたり、二葉亭四迷は件の坪内逍遥に相談した。

もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。
で、仰せの儘にやつて見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京辯だ。即ち東京辯の作物が一つ出來た譯だ。早速、先生の許へ持つて行くと、篤と目を通して居られたが、忽ち礑はたと膝を打つて、これでいゝ、その儘でいゝ、生じつか直したりなんぞせぬ方がいゝ、とかう仰有おつしやる。(「余が言文一致の由來」より)

近代文学の礎となった落語の口述速記であるが、当初の速記は読みづらく、口演そのまま速記できたわけではないらしい。岡本綺堂も先述の「寄席と芝居」の中で、「牡丹灯籠」の速記を読んだ感想として

「その当時、わたしは十三、四歳であったが、一編の眼目とする牡丹燈籠の怪談の件くだりを読んでも、さのみに怖いとも感じなかった。どうしてこの話がそんなに有名であるのかと、いささか不思議にも思う位であった。」

と記している。しかし、実際に圓朝の生の高座を聴いてみると

「伴蔵とその女房の対話が進行するにしたがって、私の頸のあたりは何だか冷たくなって来た。」

となり、寄席がはねてから「私は暗い夜道を逃げるように帰った」とある。
文章で読むのと生の高座を聴く違いはあると言えども、まだまだ読み物として出来上がってはいなかったのだろう。

落語・講談速記の流行と百花園

圓朝の牡丹灯籠発表の3年後の明治22年、金蘭社から落語講談速記専門誌「百花園」が発行となった。発行した端から売り上げ、初版は再版したほどだ。「百花園」を真似た「花がたみ」「都の錦」「華の江戸」も出たが、長くは続かなかった。
11年240号を落語と講談の速記だけで売り上げてきた同書は、速記本の金字塔だ。明治期の速記を編纂した全集の底本は、ほぼ百花園と言ってもよいだろう。

速記本や口述速記の新聞連載が流行するにつれ、速記師たちによるさまざまな工夫が行われ、口述速記は臨場感を伴ってくる。

出だしの「エェ、」の再現や「……」で間を表現したり、速記では「~なければならない」と表記するところを、敢えて「~なきゃァなんねェ」としたりなどだ。最初は句読点がなかった表記方法も、言文一致体が確立するにつれ、ルールが定まってきた。スピード感を出すために「参ったなあ、どうも」とせずに、「参ったなァどうも」と句読点なしで表記するなど、落語速記特有の表記が生まれてくるようになった。

現存している百花園は240号が最後だ。おそらく、240号が最終巻であったと思われている。
折しもこの明治33年は、三遊亭圓朝、圓朝のライバルであった初代燕枝、三代目柳枝が鬼籍に入った年であった。

百花園が消える前である明治28年には「文芸倶楽部」、35年には「文学界」が発刊となり、両誌共に落語の速記を掲載した。百花園後は、この二誌が大正時代の口述速記をけん引することとなる。

明治38年には落語研究会が発足。人情噺や古くから残ってきた落語を「古典落語」として継承する機運が高まった。発足人は、落語速記師の重鎮・伊藤次郎氏だ。
四代目圓喬や三代目小さんが、古格の東京落語を継承し後進の育成へと思われたが、大正元年に圓喬は鬼籍へ。
初代圓右が大正落語時代を代表する名人として速記も多く発表されたが、大正13年に亡くなり、幻の二代目圓朝となってしまった。

昭和の名人である五代目志ん生は、「自分は圓喬の弟子だった」と自慢しており(自称)、六代目圓生と八代目正蔵(彦六)は圓朝の弟子であった三遊一朝から稽古をうけていた。明治以来の古典落語は、速記と共に脈々と受け継がれていったのだ。

現代の落語速記と存在意義

昭和となり戦後になると、レコードやカセットテープが普及し始めた。生の高座をなんらかの形で保存し、再生が可能となり、口述速記本は、ライブの速記から「文字起こし」へと変化していく。表記についても格段に洗練し読みやすく進化した。

速記師の秋山節義氏によると「口調を徹底的に文字に表すことに成功したのは、安藤鶴夫さんで敬服にあたいする」という。安藤先生は、戦後の落語評論家だ。高座の再現にはこだわりがあったようで、「落語名作全集 第一期」(普通社)の編纂では、「従来の速記を再編集するだけなら断るが、この昭和の落語の芸を再現する仕事なら参画しようと言った」と同書に記している。

芸能関連の出版社である青蛙房からは、圓生全集を始めとした、小さん師や三木助師、文楽師などの昭和の名人たちの良質な速記本が出版されてきた。(文字起こしになっても、口述速記本というらしい)六代目圓生の速記本は圓朝に次ぐ量だという。六代目圓生は「圓生百席」で自身の芸の音源も残した。
速記と共に、三遊派古典落語の型を未来に継承するバイブルと言えるだろう。

現代でも、桂歌丸師匠や柳家小三治師匠、立川志の輔師匠の速記本や、新作落語の脚本、枕を集めた本などが出版されており、「速記本」は「読む落語」というジャンルになっている。明治自体の口述速記とはまたニュアンスが違ってくるが、高座が文字となり書籍として残されていくことは、落語文化継承の点においても非常に有益であると思う。

わたしも、楽松の高座を文字に起こしておかねばならないなあ、と感じている。
こうやって音声や動画、文字になって残るのは人気の噺家であり、ごく一部だ。大半の噺家の芸は、その人が亡くなってしまったら残らない。

文字でも残っていたら脳内変換できるものを、文字がなければ術もない。
地獄に寄席はあるのだろうか。