速記で知る明治の江戸弁と東京語

現代に継承されている古典落語が、江戸をつい一昔としていた噺家たちがどのような言葉を使い、現代に至るまでに何がどう変化してきたのか。この謎を解くひとつの資料として、落語速記がある。

文明開化による東京語の発祥

といえども、明治大正期の高座で、今よりも正確(?)な江戸弁を使っていたのか、または今とは違う言葉ばかりだったのかというと、そうとも言えない。落語速記が始まったころは、言文一致運動に加え、明治維新による東京語の推進が始まっていたからだ。

東京には、江戸訛の下町言葉と、武士などの教養層が使う山の手言葉があった。下町言葉とは、江戸訛のことだ。
古典落語に出てくる「べらんめぇ調」と称される表現は「江戸訛」といい、深川、本所、浅草や神田、日本橋などの下町に住む町人たちによって使われていた。

江戸訛はいわゆる町人たちの言葉であり、武家屋敷があった山の手では当然使われない。
式亭三馬も「狂言田舎操」の中で登場人物に「ハテ、江戸訛といふけれど、おいらが言葉は下司下郎で、ぐっといやしいのだ」と言わせている。
粋でいなせでキャンを誇る江戸っ子の言葉は、武家や富裕層の商人にとってみれば、乱暴で粗野で、お行儀のよい言葉ではなかったのだ。

江戸っ子たちが誇る江戸が東京となり、御一新。江戸は東京と改められ、四民平等がうたわれ、国に帰る武士が増え、異国の文化が入り近代化がすすめられた。同時に東京に移住してくる者も増えた。言葉にも文明開化の機運が現れ始めた。

話し言葉の基準となったのは、町人たちの江戸弁ではなく山の手の教養層の言葉であった。山の手には移住者が多く住み着いたため、地方語は麻布、赤坂、芝、麹町、四谷、本郷などの山の手言葉に影響され、次第に形を変え始めた。

特に、文末に変化が現れた。明治の初めまでは「~でござる」が使われていたが、やがて「~でござります」となり「~であります」と変化した。
「~です」は、もともと「~でげす」という江戸訛で芸人や噺家、芸者が用いていた言葉であり商人などは使わなかったものだが、地方から移住してきた人々が柳橋や新橋の芸者の言葉を聞いて、江戸の言葉として使い始めて定着したという。

「ざます」なども東京言葉として下町言葉を使う江戸っ子たちが揶揄していたが、これも吉原の遊女や芸者が使っていた言葉からだ。

明治20年も近くなると、下町言葉と東京言葉の区別がはっきりとしてくる。圓朝の「牡丹灯籠」では、医者の山本志丈の台詞に

「此処に居るは僕が極の親友です、今日はお土産も何にも持参致しません、エヘヽ有難うございます、是は恐れ入ります、お菓子を、羊羹結構、萩原君召し上れよ」

とあり、すっかり東京の言葉となっている。圓朝は言葉遣いや設定を世情に合わせることが多く、古典落語の中でも敢えて江戸訛を使用しないことが多かった。新作落語家であった圓朝は、時代性を噺に意識して取り込んでいたからだ。

下町言葉と江戸への懐古

しかし、代々江戸に住む江戸っ子たちにとってみれば、冗談じゃない。徳川のおひざ元であった江戸の名前が変わり、田舎侍がきて我が物顔で歩いているという御一新に抵抗した。

新作落語が作られ現代(維新後の明治)を舞台にした芝居を黙阿弥が作ったとしても、江戸を舞台にした芝居が流行し、落語は相変わらず古典落語が語られた。人々は江戸を懐古した。下町の言葉はそうそう東京言葉に純化するものではなかった。
江戸弁は、明治期でも東京が江戸だったころの郷愁を誘う言葉として意味を変えるようになる。

落語にもその傾向が表れた。東京語、東京弁へと変化しても、落語では江戸弁を使う八っつぁんと熊さんを登場させた。頭は散切り頭でも、出てくる言葉は江戸だった。
当然下町では、相変わらず江戸訛の下町言葉を使っていた。「東京」を頑なに「トウキョウ」と読まずに「トウケイ」と読んでいたそうだ。

そこにきて、言文一致運動が始まったのだから小説家たちは困ってしまった。小説には会話のシーンが登場する。下町言葉を文章で表現しなければならないのだ。

江戸訛を文字にする工夫

江戸訛の特徴に、おまえ→おめぇ、いっぱい→いっぺぇなどaiを「エー」とするものや、ひゃくえん→しゃくえんなど「ひ」を「し」と発音するもの、「なんだい、ありゃぁ」などの音節の融合化、「そんなこった」などの促音化がある。

発音では「か・が」を「くぁ・ぐぁ」と鼻濁音が特徴で、楽松は前座の頃、師匠に発音を厳しく躾けられてきたらしい。江戸弁、江戸訛を再現することは、古典落語を演じる噺家には必須のスキルらしい。(最近はそんなに拘らないかもしれない)

小説家の二葉亭四迷と落語の速記師は、途方に暮れた。
言文一致とはどう表記すれば一致しているとなるのだろうか。

二葉亭四迷は、坪内逍遥に「少し美文素を取り込めといはれた」という。美文素とは、東京言葉のことだろうと思われる。「~すりゃあいいじゃねえか」ではなく「~すればよろしいのではないでしょうか」というところか。

しかし、二葉亭四迷は「自分はそれが嫌ひであつた」。彼は、庶民が使っている言葉をそのまま表現するため、江戸期の滑稽本を参考にした。式亭三馬の「浮世床」「浮世風呂」には落語文化が華開いた文化・文政期の下町言葉を精妙に文字で表現していた。

僅に參考にしたものは、式亭三馬の作中にある所謂深川言葉といふ奴だ。「べらぼうめ、南瓜畑に落こちた凧ぢやあるめえし、乙うひつからんだことを云ひなさんな」とか、「井戸の釣瓶ぢやあるめえし、上げたり下げたりして貰ふめえぜえ」とか、「紙幟のぼりの鍾馗といふもめツけへした中揚底で折がわりい」とか、乃至は「腹は北山しぐれ」の、「何で有馬の人形筆」のといつた類で、いかにも下品であるが、併しポエチカルだ。」(余が言文一致の由來)

落語速記の方も、できるだけ口語に近い形で表現するために歴代の速記師たちが工夫を重ねたことは前の記事の通りだ。
二葉亭四迷がインスパイアした三遊亭圓朝の落語速記「牡丹灯籠」にある会話文には、速記師の涙ぐましい苦労がみえる。

伴「そんな這入へいりようがあるものか、なんてえ這入《へいり》ようだ、突立《つッた》って這入《へえ》ッちゃア蚊が這入《へえ》って仕ようがねえ」
みね「伴藏さん、毎晩お前の所へ来る女はあれはなんだえ」
伴「何なんでもいゝよ」
みね「何なんだかお云いなねえ」

江戸訛で読ませるために細かくルビが振られている。当て字も多かったそうだ。江戸訛の特徴である語尾の「エ」が書かれていることにも注目したい。

速記落語では継承できない江戸訛と東京語

さて、ここで明治期落語速記がそのまま東京語であるかというと、手放しで肯定できるわけではない。

というのも、「牡丹灯篭」が出版されたとき、逍遥は「言文一致後の文学」として牡丹灯籠を読んでいる。
速記した若林氏が

「言語の写真法を以て記したる故(略)圓朝子が人情噺を親聴するが如き快楽あるべきを信ず」

としているが、逍遥は若林氏が期待した思惑とは別の印象、文学としての斬新さを賞賛しているのではなかったのだろうか。
圓朝は、逍遥にとって「小説も書ける噺家」という認識だったのかもしれない。

たしかに、圓朝が作った人情噺は、会話文という落語の体裁になってはいるものの、講談に近いところもある。地の文の比率が高いのだ。しかも、「きれいな言葉遣い」である。これは、若林氏による文章作成が行われてきているのではないだろうか。

録音する術がなかったころの噺家は、師匠から噺を稽古してもらう時、耳で三回聴いて覚えたという。耳でとにかく覚えた。
土地の名前や登場人物など細かいところは速記で確認することもあっただろうが、速記だけで覚えることは「速記落語」と言われ叱られたという。

現在に古典落語が継承されているのは、立川鳶馬や初代三笑亭可楽、初代圓生が圓朝、燕枝に芸を伝え、彼らの弟子が耳で言葉を覚え、所作も丸ごと型として受け継いできたからだ。

細かい発音や声の強弱、雰囲気などは、やはり文字だけでは表現できない。会話文の落語ならなおさらだ。

圓朝は、自身の創作した落語を速記として発表しつつも、百花園には小噺や三題噺くらいしか登場していない。圓朝がどう考えていたのか現在となってはわからないが、速記は落語にはなり得ない、落語好きの市井が楽しむ「落語とは別物」であると考えていたのかもしれない。

その牡丹灯籠から3年後、速記本は地方に住む人々にも読まれ、日本全国に落語ブームをもたらした。
明治期の落語は速記によって現在にも伝えられ、三遊派じゃなくても圓朝噺ができるし、柳派じゃなくても「西海屋騒動」を知ることができる(どちらの師匠に稽古していただくかは別として)。同時に、東京語は文字として表現され続け、現在に江戸訛とちょっと古めかしい現代語の祖である東京語を今に伝えている。

「様子が良い」「決まりが悪い」「~かしら(ん)」「あたし」「まっつぐ」などなど、江戸や明治期の東京語は消えつつあり、今日では落語の中でしか出会えない。

速記も良いけど、音とセットで記憶したい。となれば、やっぱり落語は生が良い。