渋沢栄一と落語全集

大河ドラマ「青天を衝け」に加え、2024年度には新紙幣の顔になることもあり、日本国中が渋沢栄一フィーバーである。

大河になるという前に東京商工会議所で記者の仕事をしたのだが、会頭が渋沢栄一の資料をみながら逸話を教えてくださり、歴史に名を残す人物というのは、生き方も行動力も違うし、魂も違うもんだと感心した。

余韻嫋々として妙味「落語の用」

渋沢栄一と聞くと、うちにある謎の古い落語速記本がどうしても気にかかる。昭和4年発刊の大日本雄弁会講談社(後の講談社)による「落語全集」だ。

上中下の全三巻で各巻に要人が序文を書いているのだが、上巻の序文を寄稿しているのが、あの渋沢栄一子爵だ。

中身は当時の売れっ子噺家たちの落語速記らしい。演者に並ぶ圓生は五代目だし円右は多分初代の高座だろう。ただ、本当にその演者が演じたのかどうかわからない。

当時、騒人社から「名作落語全集」という一大落語速記全集が発刊されているのだが、そちらと比べてみようとするも、演者が書いていないし速記者もわからない。
「落語全集」の方も、演者はあっても速記者はわからないし、どこの高座なのかも書いていない。底本がわからないので比較しようがないのだ。

年代的に同社の「講談倶楽部」『キング』『面白倶楽部』に掲載していた速記なのかもしれないが、調査ができていない。

さて、この「落語全集」だが、何が謎かというと「非売品」なのである。

では希少品なのかと言えばそうでもないらしく、神保町でセットで3300円で手に入れた。古書店にもメルカリにもヤフオクにも出品されているのをよくみるので、結構な部数で配布されたものかもしれない。

さらに、全く同じ内容で同じ「落語全集」が同年に同出版社から1円20銭で発売されている。何故非売品なのか、謎のままである。

見開き部分には「無趣濁心耳」という題字を高橋是清が書いている。時の大蔵大臣である。下巻の題字は前内閣総理大臣として若槻禮次郞だ。こう言ってはなんだが、落語を集めた全集に物々しすぎやしないか。訳が分からない。

渋沢栄一は、落語が好きだったそうで、中でも三遊亭圓朝の贔屓であったらしい。この序文にも圓朝と落語の役割について書かれている。

 近頃は社交の様子がすつかり変つて、一体に雑駁になるばかりで、妙趣といふものが無くなつて来たやうに思はれる。客を損ずるにしても、往事は徒らに談論し飲食するといふだけではなく、必らず講談師とか落語家とか、或は清元、義太夫などの芸人をよんで、これに余興を添へなければ、宴席の体をなさず、客に対して真情をつくした礼儀といふことは出来なかつたものである。

予は青年時代から頽齢に至るまで、かやうな社交場裡で過ごして来たので何時頃からとはなく落語が好きになつて、随分いろいろのものを聴いてゐるので、主なものは大抵覚えてゐたものである。殊に三遊亭円朝が大の好きで、よく聴いた。(中略)その話しぶりも実に上品で、他の落語家のやうに通り一遍のものでなく、自分自身が涙をながして話したくらゐで、従つて感銘も深かつた。(中略)

(落語は)一つの話の中に、あらゆる世態人情の機微を穿ち、また奇知頓才の妙をつくしてゐるので、知らずしらずの間に腹を練り人格を円満にし、以て庶世の妙諦を会得せしめると共に、交際の秘訣を理解することもできる。殊に落語のさげといふものは、一つの話を締めくくって要領を得させ、しかも余韻嫋々として妙味作るところを知らないものがある。単なる小噺のやうなものでも、味へばそこにつきざる味ひが存するのである。(中略)

余韻のある庶世、余情のある交際、これほど人生において大切なことはないのである。老生などは滔々たる懸河の弁を弄するよりも世人が此の落語に学ぶところ多からんことを希ふ次第である。
(大日本雄弁会講談社「落語全集・上」序文より引用)

三遊亭圓朝は、山岡鉄舟に禅を師事していたこともあり、多くの政財界の人物と面識があった。圓朝自身、そういった人物に積極的に接触した。

渋沢栄一とは、どういった経緯で知り合いになったのかはわからないが、頻繁に挨拶に伺っていたようである。鉄舟主催の座禅会には各界の人々が集っており、そこに圓朝も参加していた。渋沢栄一と知り合う機会は大いにあっただろう。

渋沢栄一がいつから落語を好んでいたのかはわからないが、自宅に客人を招待するときには決まって、落語家や講釈師、義太夫を呼び余興をさせていたようだ。

序文にも「必らず講談師とか落語家とか、或は清元、義太夫などの芸人をよんで」とあり、栄一にとって、食事だけではなく余興で楽しませることは「客に対して真情をつくした礼儀」であった。

会を催す際に芸人を呼んでいたことについては、「飛鳥山公園の自宅での園遊会の余興として、三遊亭円遊が来ていたことを覚えている」と、栄一の息子である渋沢秀雄も書いている。

渋沢家が飛鳥山に転居したのは明治34年であり、前年に圓朝は死去しているので、その弟子で当時超絶人気者だった円遊を呼んだのだろう。

子どもだった秀雄は円遊に芸をやってほしいとねだり、簡単な小噺をしてくれたらしい。なんという役得。
余興では「テケレッツノパッ」と踊って聴衆を爆笑させていたそうだ。

教養人たちがこぞって聴いて読んだ圓朝噺と速記

明治六年一月下旬、渋沢栄一は、陸奥宗光と共に富岡製糸場を視察したが、この旅に圓朝を同伴している。この序文にもその時の様子が書かれてあり、陸奥宗光は相当に面倒で気難しい性格だったらしいが、圓朝はうまく立ち回っていたらしい。
圓朝のこういうところが、各界の要人たちに重宝がられていたのだろう。栄一も感心した旨を書いている。

明治二十六年一月には、栄一は圓朝を伴い静岡の徳川慶喜公のところへ向かった。圓朝は御前で「塩原多助」をかけ、その祝儀として、慶喜公から「拾五円」賜ったとされている。今の貨幣価値でいうなら、30万円くらいか。

栄一が圓朝を贔屓にしていた理由は、当時圓朝が人気であり要人たちと立ち回れる礼儀や会話術があっただけではないだろう。

渋沢栄一著『実験論語処世談』(大正十一年十二月四版刊)によると、「私は親しく圓朝と会談《はなし》したことは無いが」としながらも

妙な軽口みたやうな落語《おとしばなし》だとか、或は大袈裟な芝居懸つた真似なんかし無くつても、何とかシンミリと素話《すばなし》丈けで聴衆を感動させ、泣かせたり笑せたりして、之によつて因果応報の道理を覚らせ、勧善懲悪の道を心得させるやうにする工風は無いものかと考へ、遂に人情話といふものを発明し、素話を演ることにしたのである。それが大変に時世の嗜好に投じウケるやうになり、名人の誉れを揚げるまでになつたのだ。

また、鈴木古鶴(行三)の『円朝遺聞』の渋沢子爵語るの部分で

井上侯がひどく贔屓であつた。川田(小一郎)も随分贔屓にした、大倉も馬越も皆圓朝贔屓で、その時分圓朝の速記本が出ると夢中になつて読んだものだつた。

栄一などの財界人たちは、なぜ圓朝の落語を好んでいたのだろうか。その理由に、扇子と手ぬぐいでだけ語る、素話の巧さと凄みがあったからではないか。

三遊派の復興という責を担った圓朝は、自ら財界人に、他の一門の追随を許さない素話の人情噺を聴かせ、「人情噺の三遊派」として確固たる地位を築き上げようとしていた。

明治半ばも過ぎてくると、爆笑派の落語が求められ、ステテコ踊りやテケレッツノパッが民衆の人気をさらっていた。滑稽噺や面白おかしい芸が求められていた。

しかし栄一は、受けを狙った芸よりも、可笑しみや哀しさを聴き手の心情や環境により様々な形で共感させる、話芸としての人情噺を追求する圓朝の姿をみていたのではないだろうか。

昭和4年発刊の「落語全集」には、既に圓朝の高座は伝説となっており名前を見ることはない。
それでも、今から100年近く前の高座だ。現在ではかけられなくなった噺や、聞かれなくなった噺家の名前も多い。前座噺の部類に入る「一目上がり」「寿限無」「子ほめ」なども速記になっていて興味深い。

滑稽噺の他にも「唐茄子屋政談」などの人情噺もある。六代目圓生の型とほぼ同じなので、演者をみるとなるほど三遊亭円右だった。幻の二代目圓朝だ。

圓朝の亡きあと、渋沢栄一はどのような思いで落語を聴いていたのだろうか。
栄一は、圓朝の小噺「親子の聾」が大好きだったようで、あちこちで

「ほんの一言か二言だが、実に何うも何とも云へなく面白かつた」
「実に限りない妙味があるではないか」

と感激している。

そんな栄一が愛した小噺も、やかましくなった今日の世の中では、寄席にかけられることもない。