速記本の金字塔「百花園」

落語の歴史にに「百花園」あり。百花園は、明治22年に発刊された、落語講談の速記専門誌である。

落語速記本の代名詞となった「百花園」

百花園は毎月5日と20日の月2回の発行で(21号からは月1)、明治33年11月号(240号)まで続いたらしい。

らしい、というのは、終号ははっきりせず、国会図書館に保存されているのが240号であり、少なくとも240号までは発刊されたのだろうということだ。
第7号には「次号より柳連をも掲載いたします」とあり、当初は三遊派の高座を掲載していたという。

百花圓は、古書界隈で揃えて入手しようと思うと、べらぼうに高価なうえに非常に難しい。
現在、国会図書館に保管されているのを閲覧できるほかに、日外アソシエーツが240号までのすべてをDVD化している。お値段が23万円と立派なため、研究者向けだろう。

こちらも国立国会図書館で閲覧できる。当時のものをそのままスキャンしているため、読み物として読もうとすると、表記が明治期のそれなので、非常に読みにくい。読んで理解するためなら、現代仮名文に翻刻された全集を読んだ方が理解しやすいだろう。

百花園と落語速記ブーム

この百花園が底本となり、昭和に入ってから円本ブームも手伝い落語速記全集が大いに発刊された。講談社の「口演速記明治大正落語集成」には、百花園から相当数が入っている。読むのなら、こっちの方が断然わかりやすい。

何しろ、明治期の表記は、当て字がやたら多い上に句読点がなく、台詞の改行がない。それでも、活字になっているだけ変体仮名を読むよりは格段に良いのだが。

とはいえ、明治期の言葉が口語体でそのまま書かれており、明治期における文章感覚を知るには貴重な資料だ。
現在の落語の演目が、明治期にはどのように演じられていたのか、三遊派と柳派による違いはあったのか、サゲの違いやストーリーの違いなど、さまざまなことを知ることができる。

エンタメ要素たっぷりで挿絵は大御所が担当

読者からお題をもらって三題噺

百花園を発行した金蘭社は、神田にあった出版社である。のちに、速記師である今村信雄が編集した落語全集を出版している。落語や講談に縁のある出版社第一号というところか。

菊判23字詰め16行2段組。78ページで別刷り挟み込みの挿し絵が3、4葉添えられている。21号で月1となってからは、ページ数は156ページと倍になり、一段組になった。

1冊につき7、8偏の落語と講談を掲載し、講談が流行したときは大半が講談だったときもあるらしい。読者からお題をもらって三題噺を掲載した号もあり興味深い。

挿し絵は、省亭・しんかん・芳年が担当。蒼々たる面々だ。
口演は、当時の名人や人気者の高座を多く掲載している。
速記担当は、圓朝の牡丹灯籠を速記した酒井省造があたり、発刊翌年からは門人である今村次郎も参加している。他、4、5名の速記師がおり、いずれも一流であったという。

創刊から大いに好評を博し、10号までは、毎号(延べではない!)1万5、6千部が売れたという。創刊号は再販までされており、雑誌としては異例の売れ行きだ。

百花園の編集後記

百花園第一号の速記は、同社の二階で行った。以降はどうやったのかわからないが、「鶯亭金升日記」に速記の様子が記されている。

部屋の正面に高座ができており、速記者が机に向かい、画家と記者が側に座る。噺家がやってきて「ハイ、願います」と始まり、酒井氏が鉛筆を走らせる。
仕上がった速記を噺家に読んでもらいその場で修正し、画家はラフを噺家に見せる。それが終わると火鉢を囲んで芸談が始まったと振り返っている。その芸談も速記していて欲しかった。

ある時は、高座がおかしすぎて酒井氏が「噴飯」して「先生、速記ができません」ということもあったそうだ。
寄席や講釈場に赴いて速記することもあったようで、高座中に当時の着物事情により下半身がのぞいてしまい客席が笑い出し「メチャメチャになった」こともあると書いている。
なんにせよ、なごやかだ。

なごやかさは、編集後記にも現れている。
第18号では

「本誌はこれまで発行期日をあやまりたることさらにこれ4えなきところ、本号においてはなにぶん新年に際し、後援者も宴会等に多忙、社員もゆったりとした陽気に浮かれ足る固め、はからずも印刷がおくれまして、まことに相住みません。」

新年で浮かれたためと正直に白状している。印刷が間に合わなかったのは42号でもあったらしく

「記者いわく、速記者すでに速記し、原稿執筆中インフルエンザにかかり、印刷に間に合わざるをもって次号にゆずり、おことわりまでに挿絵をあらかじめかかげおきます」

挿絵だけ掲載している。
噺家の事情も、噺家らしくてよろしい。

第59号「こさん、巴井一、春風亭柳枝ら旅行中にて、本号に漏れたるもの次号には必ずのせます」

126号では、画工の思いこみで本文と挿絵が反したとあり、編集部一同で万謝している。
クレームが押し寄せたのかも知れない。というか、校正段階で気づかないものなのか。
このあたりも、時代のおおらかさというものだろう。

浪曲は別の庭へ

また、読者から「浪曲をなぜ掲載しないのか」と批評があったらしい。この返答に、速記本の親方である百花園は、次のように見解を表明している。

「ただ浪花節を速記にしてはいかにとのしかじかは、小首をかたぶけざるを得ざる次第なれば、思うままをここに。
百花亭の下足番某
浪花がたなにはともあれ花園の うちには植えじあしのひともと」

百花園では「うちでは植えない」と言われてしまった浪曲だが、大正に入ると多くの速記が出るようになった。

大正2年には『講談倶楽部』の臨時増刊として『浪花節十八番』が刊行されており、国会図書館デジタルコレクションで読むことができる。節の部分は「ふし」と振っている。文字にしてみると、なるほど幾分文語調で、落語は画期的な口語体の文章なのだなと感心。

百花園と三遊亭圓朝

速記本のはしりであり代名詞のごとく売れた百花園だが、三遊亭圓朝の速記は数えるほどしか掲載されていない。その理由を垣間見ることができる資料として、圓朝による「舌代」が「口演速記明治大正落語集成第二巻」(講談社)の月報に掲載されている。

舌代 三遊亭圓朝
此度百花園と云ふ雑誌を発兌するに付いて、数ならぬ圓朝にも何か一席受け持てよとの事でありましたが、外々ならば近頃病気でもあり蒡蒡辞退いたしますれども、知っての中の金蘭社の事故、然らばと引受はいたしましたがさて堂も火急に妙案も浮かばず、ト云って其の儘打ち捨て置いては折角の約束に背くことと存じ、此の度は一寸右のお断り丈を申し述べ置きまして、次号よりは毎号必ず出席いたし、持ち前の落語人情噺でご機嫌を伺いますれば、何卒相変わらずご愛顧のほど偏に奉願上候。即ち其の評題は
記者「次号のお楽しみに預かり置きます」

(百花園 一巻一号)

舌代 三遊亭圓朝
エ、毎度只口上ばかりでは御贔屓熱きお客様へ対し何共相済まん義では御座い升れば、例の咽頭病に付き、今一席御免を蒙りまして、次号よりは是非共出席致しますれば、何卒あしからず御諒察下され、倍旧ご愛顧のほど奉願上ます。

(百花園 一巻二号)

 結局、圓朝は3号から登場するが、短い三題噺と小噺のみで、一席も、ましてや長講の連載はついに実現しなかった。

現在と同じように、雑誌は売れてなんぼなので、百花園も人気者の噺家の速記を掲載しようとしただろう。
しかし、噺家の中には「速記にして読めるようになると芸が盗まれる」と考えて、速記の段になると別の型にするのもいたらしい。
当時は、人情噺を創作する噺家も多かったので、「パクられる」ことを心配したのかもしれない。

また、噺家として完璧な高座を速記として残したかったのかもしれないとも思う。
六代目圓生も「圓生百席」は編集ありきの無観客落語で、折り目正しく美しく、整然の極みの高座を音源として残した。

圓朝もそのタイプだったかもしれず、現在伝えられている速記は文学のように美しい。

圓朝の速記は、現代では角川か岩波から出ている圓朝全集で読むことができる。青空文庫にもいくつかある。現代落語としてかけられているのは、膨大な噺のなかのほんの一部だ。

小噺・しわんぼう

ごくシワい人がございまして

「小僧や」
「へェ」
「お隣りへ行ってノ、蚊帳の釣り手を打つんだから金槌を貸して下さいと、そういって借りて来い」
「へェ。……行ってまいりました」
「貸してくれたか」
「アノお隣で、なんの釘を打つんだと申しますから、蚊帳の釣り手を打つんですから鉄《かね》釘でございましょうと申しましたら、鉄《かね》と鉄《かね》との擦れ合いで金槌が減るから、貸せないと申しました」
「ムウンそう。けちなやつだ。……じゃァ宅のを出して使え」

百花園に掲載された圓朝が振った小噺「しわんぼう」は、現在でも定番の枕だ。